キングダムの登場人物「慶舎」は黒羊丘の戦いで信によって命を落としました。
多くの武将が激しい性格で知られる中、沈黙を守る慶舎は非常に珍しい存在。
慶舎の物語がもっと続けばよかった!
実際、慶舎はこの戦いで本当に亡くなったのでしょうか?
これについて調査しました。
【キングダム第5期】慶舎について
『キングダム』第44巻の特別マンガでは李牧と慶舎の出会いが描写。
田舎の軍略大会で李牧の弟子を打ち負かした「待ち」の戦術を駆使する少年。
実は武具屋で住み込みで働く「慶舎」だったのです。
kingdomの慶舎は、村が襲われた際に両親を含む村人が殺されてしまい、、、
以降 無表情で口も利けない孤独な子供でした。
李牧は慶舎の才能に目を付け「一緒に旅をしよう」と誘いました。
慶舎にとって李牧は恩人だね。
慶舎の戦術は、蜘蛛の巣に獲物を待つようなスタイルでした。
趙軍の実質的な指揮官として合従軍と戦った際、秦の本能型武将である藨公と対峙しました。
最終的には決着がつかないまま戦いは終了。
黒羊丘での戦いでは、桓騎の計略により通常は「待ち」スタイルを取る慶舎。
しかし焦りから先に動いてしまった。。。
秦軍の包囲を一時的に脱出しますが、最終的に信との直接対決で慶舎は討たれました。。。
キングダム第5期 歴史上の史実での慶舎
歴史上では、慶舎は孝成王と悼襄王の下で仕えた趙の武将でした。
『キングダム』の慶舎のモデルとされるこの人物。
孝成王10年(前256年)に楽乗と共に秦の信梁軍を破り、悼襄王5年(前240年)には東陽と河外の地の軍を率いて黄河の梁を守った実在の人物。
しかし、キングダムの物語は、この実在した慶舎とは異なる点が多いです。
彼の人物像や背景はフィクション要素が強い。
慶舎は東陽と河外の地の兵を率い、紀元前240年に黄河の梁(はし)を守りました。
これは合従軍との戦いで秦が勝利した翌年の出来事であり、慶舎が参加した可能性が高い。
黄河の梁は秦との国境に近い重要な場所。
慶舎はその重要な守備を任されたと考えられます。
『キングダム』における合従軍との戦いや黒羊丘の戦いへの慶舎の参戦は記録されていません。
また黒羊丘の戦い自体・・・
史実に存在しない可能性もあるんだ。
しかし、この時代に慶舎は趙の名将であったことが確かです。
キングダム 慶舎の最期については記録なし
慶舎の最期については 具体的な記録は残されていません。
紀元前236年の秦による鄴攻め以降。
- 慶舎が登場しないこと
- その子孫の記録がないこと
それらから考察すると この時期慶舎は亡くなった可能性があります.
どの戦いで亡くなったかは不明ですが、病死の可能性も考えられます。
慶舎は李牧に救われその後 李牧の右腕として活躍しました。
合従軍との戦い。
また黒羊丘の戦いでは知略を発揮し、最後は信との一騎打ちで想像以上の剣技を見せました。
趙国にとって慶舎の死は大きな痛手でありました。
彼の最期が必然であったとも言えるでしょう。
キングダムの慶舎は史実に基づいている?最後(最期)はフィクション?まとめ
慶舎は史実に基づく実在の人物でした。
しかし慶舎の人物像についての記録は少ないです。
とはいえ「キングダムでのキャラクター」としては非常に印象深い大きな存在です。
李牧に救われたことから、彼の物語にさらに注目が集まりました。
慶舎のスピンオフ作品を見たいと思うファンも多いでしょう。